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学生座禅会

鎌倉の円覚寺というお寺で行われた学生座禅会に参加をしてきました。
学生とはほど遠い年齢の私ですが、「厳しい場についていく覚悟があるなら」を条件に、無理を言って参加をさせていただきました。5日程度の断食なら自宅でも可能なのですが、座禅となると人が来たり電話が鳴ったり猫らがにゃーだったりあれやこれやできっと無理。それに、お寺のピンとした空気の中に身をおきたかったのでした。

朝は3時40分に起床です。まだ夜明け前の暗闇の中から一日が始まります。座っているあいだに段々明るくなり、鳥が鳴き始め、開け放った窓からは草や花の香りがしてきます。

座り続けていると、息を吸ってるんだか吐いてるんだかよくわからなくなったりしました。手がなくなってしまったように感じることもありました。眠ってたわけではないですよぅ。^^
初めは「棒で打たれる」ってことに対して私は激しい恐怖を持っていたらしく、鼓動が早くなって呼吸が速くなって、やーん。一度打たれてしまえば平気になるに違いないと想ったのですが、徐々に打たれることに対する恐怖は薄れて行きました。不思議なものです。最後まで打たれることなく終わってしまったので、今となってはちょっと残念・・。

座禅会での修行は座ることだけではなく、その間の"すべて"です。
食事の時などの様々な作法や振る舞いは、自分を律することなく生きてきた私には一苦労でした。むぅ、こんがらがりました。
いっぺんに覚えられる頭がないのねぇ、とほほ。

何かを手にする前や、次の行動に移るときには、必ず合掌や低頭。
なるほど、そうすることで、ひとつひとつの物や事や場や時をきちんと捉えることができますし、そのひとつひとつを尊く感じるが故にそれらを大切にする想いが生まれます。そうすれば作法は自然に身に付いていくはずですねぇ。それまでの物や事に対する自分の在り方、関わり方が確実に変化してしまうはず。

その作法の中にあるひとつひとつの意味を自分なりに咀嚼してみると、自分の情けないほどの在り方が見えました。家に帰ってきてから同じようにやってみて、物をひとつ手にする度、動く度に、それまでの自分が"それ"に対していかに無関心であったかが驚くほどわかってしまいました。観ているようで観ていなかったし、大切にしているようでちっとも大切にしていなかったのですねぇ・・。

んー、「厳しさ」と言う表現の奥に深い愛を感じます。
作法って、やっぱり表面的なことだけが大切なのでは決してなくて、外側から内側へ、内側から外側へ・・、内側と外側がしっかりとつながっていることこそが大切なのですね。

お世話になった老師様や雲水さん、学生座禅会の幹事の方々の動きはとても美しい。野菜の切り方ひとつに、典座を務めた幹事さんの素晴らしさを感じました。点と点を結んでひとつらなりの動き、しなやかで優雅で本当に一瞬一瞬が美しい。

入山したときは咲いていなかった桜が、下山時にはたくさん咲いていて、私はまるで浦島太郎な気分でした。どう、とは説明がつかないけれど、目に映るものやそれらとの関わりが入山したときとはなんだか違う感じがします。参加できて良かったな。春という優しい季節で良かったな。

座禅会での体験を、これからの日々の中でどう生かしていくのか、心から生まれてくるものたちと、どう付き合っていくのかも自分次第です。
一瞬一瞬、一歩一歩、ひとつひとつ。
今、あらゆるすべてを愛おしいと感じています。

by yumeyaeikoalways | 2006-03-30 11:58 | おでかけ  

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